June 11, 2009

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或るものが社会に於いて価値を孕み、権力を備えるとき、人々はその力に対して何らかの対応をすることが正しさを持つと考えている。
「みんな」がそれについて価値があると認めていると人々は考える。
これは、「わたし」が考えている"この"価値観について、「みんな」も同様にして"それ"について価値があると看做していると、「わたし」が主観的に考えるということが、社会的に——つまり充分な客観性を伴うようにして"この"価値観が保証されている、と云う状況が反復的に思い返されようとも依然として維持され続けている、ということだ。
言葉が過剰な強度を持つとき、人々はこのように強い言葉について、先ず妄信してしまう悪癖を備え始めている。
このような営為の強度を持つ言葉に対して、人々は反論できないのだと(率直
な見方としては諦めに似て)考えている。
「強い言葉」は、一対多の関係が十全に成功した場合に於いてよくみられる。
これが、「力強い言葉」とは言い替えられないことは下記に詳述する。
このような「強い言葉」とは、例を挙げれば、煽動や啓蒙、啓天、啓示、喧伝など、一対多の関係が共有可能なものとして承認されるような「開かれ」に於いて認められる。
「一」から「多」に向けて拡散する場合と、又、「多」から「一」へと向かって集合する場合の両方に、このことは認められる。
そして、両者に共通することは、言葉がどちらの方向に発せられようとも、必ず事後にはその言葉が共有されていると承認されることにある。
また、「多」であるものが「一」として、「わたし」や「あなた」などの一者の口から語られる際に、人々は親密さと力強さとを感じるのであるが、この「力強さ」とは単なる多数者原理に対する暗黙の了解から至った"唖"に他ならない。
人々は、黙ることにも美徳を感じているからだ。


ぼくは、きみともっと仲良くなりたいと思って、きみと恋人になったんだ。
きみが好きだからと、これはだから、きみともっと仲良くなりたいのだとも置き換えてくれて構わない。
恋人のことは「好き」だから、友人とは仲が良くて、仲の良さでは恋人同士の方が寧ろ空々しいなんて、余りにないだろう?
愛しいことの深遠さが"仲の良さ"を毀損するとも思えないし、その逆もまた有り得なさそうだろう。
だからぼくは、仲の良さと愛しさとを、全く別の価値体系に置いて比較するなんてことナンセンスだと思っている。
きみがぼくについて相変わらず嫉妬深くたって構わないし、それが紛れもないぼくの好きなきみなのだとしても、やっぱり好きと仲の良さとのぼくなりの思い込みに対して誤解されるのはままならないことなんだ。