June 7, 2009

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なびす画廊にて『黒須信雄』展を観た。
双複性のモチーフが気に掛かる。
Mkrさんから、また幾冊か以下の本、
『BOOTLEG』(Vol. 1-3, 1994-'96.)、
『issues』(Vol. 2, 多摩美術大学大学院美術研究科芸術学, 1998.)[既に所持]、
『ART FIELD ——宇宙の芸術誌』(No. 4, アート農園, 2007.)、
『セゾンアートプログラム・ジャーナル』(No. 3, セゾンアートプログラム, 2000.)、
『R・4989』(No. 1, 2, 4, 1989-'91.)、
これらを頂いた。
それから山口ギャラリーにて『水上』展を観た。
土台方向の有無について、また気に掛かりを覚える。
正面性を持つもの、持たないもの。
土台方向を持つもの、持たないもの。
どちらの要素も備えている立体は得てして「彫刻」と名指し易い。
どちらの要素も備えない立体は「オブジェ」である場合が多い。
彫刻は、無理に立つことを嫌うことが多いので、
何らかの制約の上に、そのようにして置かれることに落ち着くことが多い。
が、この"置かれ方"について、作品としての強度を示す要件を維持し得ているかを勘案する必要は必ずある。
Y画廊を出てから直ぐの場所、ビルヂングの日陰に本が山積みとなって無造作に置かれていた。事務所の整理でもやっているらしい。次から次、山が継ぎ足されていくのだ。「ご自由に——」とのことだったので、少し時間を掛けて、
『INAX ART NEWS』(No. 82, INAX, 1989.)[『野村仁展——コスモ・クロノグラフィー』(1989 May. 1−28)]、
『リチャード・ロング——山行水行』(淡交社, 1996.)[企画展図録]、
『〈かたまり彫刻〉とは何か』(小原流, 1993.)[企画展図録、既に所持]、
『菅木志雄——周囲界合』(双ギャラリー, 1990.)[個展図録]、
『郭仁植 伊丹潤 巡回展』(HANEGI MUSEUM, 2000.)[企画展図録]、
『日韓現代美術展—自己と他者の間—』(目黒区美術館/国立国際美術館/国際芸術文化振興会, 1998年)[企画展図録]、
『幻触』(鎌倉画廊, 2006.)[企画展図録]、
『KWANG YEOP CHEON(千光燁)』(ȮN GALLERY, 1992.)[個展図録]、
『構造と記憶——戸谷成雄・遠藤利克・剣持和夫 木による作品を中心として』(東京都美術館, 1991.)[企画展図録]、
"PANAMARENKO---Cars & Other Stuff"(Galarie Tokoro, 1993.)[企画展図録]、
『YOKO ONO "FUMIE"』(草月会, 1990.)[企画展図録]、
『千崎千恵夫 1982-1989』(かねこ・あーと ギャラリー, 1990.)[個展図録]、
『DONALD JUDD』(ギャラリー ヤマグチ, 1989.)[企画展図録]、
『丁昌燮(Chung Chang-Sup)』(東京画廊, 1999.)[個展図録]、
『建畠覚造』(愛宕山画廊, 1989.)[個展図録]、
『「現代日本美術の動勢——絵画PART2」展』(富山県立近代美術館, 1988.)[企画展図録]、
"WAKIRO SUMI---WORKS 1981-1986"(ARGO Co., 1986.)[個展図録]、
『安喜万佐子』(BASE GALLERY, 2003.)[個展図録]、
『「宇宙のかけら・時のかけら展—笠井千鶴・野村仁・宮島達男—』(新潟市美術館, 2000.)[企画展図録]、
『写真で語るII—光が残した澱み—』(東京藝術大学陳列館, 1991.)[企画展図録]、
『菅木志雄——まなざしの周辺』(東高現代美術館, 1990.)[企画展図録]、
『黒川弘毅(GOLEM)』(東京画廊, 1991.)[個展図録]、
『小清水漸—水浮器—』(galerie 16, 1988.)[個展図録]、
『「見えない境界——変貌するアジアの美術」展 光州ビエンナーレ2000〈アジア・セクション〉日本巡回展』(宇都宮美術館, 2000.)[企画展図録]、
『彦坂直嘉 CTP & TP』(アルト・ギャラリー手, 1989.)[個展図録]、
『郭徳俊(Kwak Duck-Jun)』(フェイズ・テン実行委員会, 1992.)[企画展図録]、
『5 Drawings』(児玉画廊, 1989.)[企画展図録]、
『MOTアニュアル 2000——低温火傷』(東京都現代美術館, 2000.)[企画展図録]、
これらを選び取った。
人混みを避ける為に大通りに並行する脇道を歩き、八丁目まで至る。「ギャラリーせいほう」にて『Madan Lal』展を観る。初見の印象では黒川弘毅の「ゴーレム」シリーズに似ている。が、テラコッタという不定形の素材を造作することを示す為の、営為の作為とでも呼べそうなものに作者の意識が向いていることが分かる。カタログ文章にM先生が"Play with cry"と指摘していたが、その通りである。が、私はどちらかと言えば、テラコッタの表面が乾燥し始めた折の屈曲によるひび割れや、乾燥したテラコッタの原型がおそらく不随意により破損した欠けなどが、そのままブロンズによって写し取られることで存続する、表面上の質感の方に興味を惹かれた。この点は小川氏の作品にも似ている。勿論、当の作り手はそちらの方へ熱心に意識を割いているという感じはしないのだが。