June 28, 2009

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 友人から映画へ行こうと誘われて渋谷へ行く。
 待ち合わせの時間までにはまだ余裕が有ったので TOWER RECORDS に立ち寄り "Heart of the Forest" を購入する。これは Baka Pygmies の固有な音楽集である。他、高木正勝の新譜 "Tai Rei Tei Rio" が出ていたので、それを試聴する。私はこれまで彼の映像作品のみを評価し、彼の音楽についてはさしたる興味を持たなかったのだが、本作については注目すべきものを感じた。即興らしさが先立つ作為となって空々しい箇所もあり、こと和声の軽んじられた印象があるものの、逆には即興的な匂いが為の瞬発力には琴線に触れるものがある。それは、以前に多摩美術大学で催された対談の折に目にした、『(不明:2013/09/23)』に感じられた ボルタンスキ, K. の作品にも似る感覚のあったことを想起させた。また、同梱された『タイ・レイ・タイ・リオ紬記』には、『Homiĉevalo』の前例があるから芸術人類学研究所との関連を想像した——無論のこと、これは楽曲中に散見される文化人類学的な興味の束からも——のであるが、何のことはない、この冊子の監修・編纂を当研究所助手の石倉氏が行っている。
 それからユーロスペースへ行き、横浜聡子『ウルトラミラクルラブストーリー』を観る。この回は監督本人への質疑応答付き。尚、以下には私の個人的な見解を記載するが、その内容について、作品を鑑賞するよりも前に目にしたからと云って、作品の性格が少しも毀損されるものではないことを保証する。何故なら、作品に対する好嫌の感想は、観者個々に自由なものだからである。のみならず私は、私の興味に従い、作品に於ける構造にのみ注視してここに記述するのだから。
 この作品が青森県を舞台にして、舞台となる地方に固有の言葉遣い(津軽弁)により展開されることは、事前の知識として既に得ていた。この時点で先ず予想されたのは、標準語を話す人物の導入である。というのも、一般的には聞き取りの難しい津軽弁によって全てを展開することが作品の鑑賞に際しては障害と成り得るからであり、方言と標準語との遣り取りにより、このように特異な音に対して観者が次第に耳慣れていく効果が期待し得るからである。(私は東北地方の音に慣れ親しんだ耳を持っているので、作中の聞き取りにはそれほど苦労はしなかった)
 次に、作品の通奏低音となる「死者の声を聞くこと」についてを記述する。前半部中に登場するイタコに扮した人物が町子(主人公Aと恋仲に成ることが予感されている)に対して「死者の声が不明瞭であったとしても、それに耳を傾けるべきである」という強い宿命感を提示する。また、「誰もが空っぽの頭を持っている」とも提言する。前者について、先ずは冒頭部で(i)Aが亡き祖父の録音(カセットテープに収められた農作業指南の口述——これは技術の伝承である)された声に耳を傾けることを端緒として、中盤部で(ii)町子の元恋人であり故人の要(かなめ)の声をAが聞く(体験の伝承)こと、(iii)心臓が停止することで一度死に、にも拘らず生ける死者として在るAの声を町子が聞く(これは物語上の山場である)こと、さらには終盤部で(iv)Aが二度目に死んだ後に、録音されたAの祖父の声の再生という再現部を経て、Aの声もまた再生されるのを町子が聞くこと、そして明確な死者としてのAの声が提示されることを通じて、さらには保母である町子が子供たちへの語り掛けについて熱意を抱いている(知識の伝承)ことからも、世代を経た連関に於いて死者の声が伝達されていく構造が明らかなものとなっている(が、Aの両親については描写を欠いており、不明の侭である。これは、祖父から孫への血縁上の連関に於ける飛躍から、それに並行した、自己から他者への飛躍を補強するようにも見える)。と同時に、これらはAの身体が死へと移行する段階の在り様でもある(i. 死者の声を聞く為の耳を持った生者として。ii. 生者と死者との中間段階として。 iii. 死者として生者に語ることを可能にする存在として。iv. 完全な死者として、生者にとっては追憶も反復も可能な存在として。このような段階を経て、Aは死者と生者との間で媒介者としての役割を果たし、消滅する)。尚、「声の不明瞭さ」については質疑応答の際に監督自身が"明確な意味付けを避けた直感的な言葉"として補足していたが、これは"標準語からの方言に対する不明瞭さ"としても重合している(逆に、町子の明晰な声は、意味への妄信が表現されたものだ、とも彼女は補足していた)。後者については補足的に後述しよう。
 ところで、質疑応答の際に或る質問者より雑誌上の監督へのインタヴュー記事について——結末での町子のアンビヴァレントな表情のクロースアップ・シーンが「恍惚の表情」として演出されたらしいこと(出典は不明である)——の情報から、私は即座に バタイユ『エロティシズム』のことを想起する(「恍惚」の語を「エロティシズム」へと直結させる手続きは、非常に安易な仕方であるが)。なぜなら通俗的には恋愛描写に於いて必要とされる性衝動の表現(程度の差を伴う)がこの作品にはすっぽりと欠けている(このことによりAの無垢さが強調されている)為に、却って町子の恍惚がエロティシズムの欠如を止揚する(つまりは正常な男女関係への移行を可能とする)ということが、邪推とは云え有り得るべく充分な強度を備えていると考えられたからである。また同様に、質疑応答の際には監督の発言に散見された「空っぽの頭(純粋さから導き出された必然性)」より、頭部を欠損した亡霊として登場する要や、森の中で熊と誤認されて射殺(彼にとって二度目の死)されるAが毛皮を連想させる上着を纏っていること、結末でのAの脳を貪り食べる熊からAの熊への転移が想像されることと、それによりAが要同様に頭部の欠損した類似の存在として見出されることからも、又、バタイユの「無頭人(アセファル。頭部のない人間か、動物の頭部を持つ人間として表される)」のことを想起するものである。

では、批評とは何であるか。作家の作為を詳らかに暴くことだろうか? ひいては作家の作品に忍ばせた作為の矛盾を明らかにし、その拙さを難じるものであるか? 例えその言及が仔細に渡ろうとも、結局は論拠を作品へと還元してしまうのだから、一般的に「批評的」と称される遊戯の多くは主観的な陳述に留まるに過ぎない。敢えて言えば、作品に対する言及に臨んで仮にも「作品」と名指したものを当の作品それ自体に真っ当から屹立させることこそが批評的な態度であると言えないだろうか。

たったこれだけの証左により、監督にバタイユの素養が有るなどと結論付けてよいものだろうか? 無論、このような読み取りを保証する為の考察はまだ不十分であるが、分析の可能性として保留したい。
 では、この作品に於けるもう一つの主題である「空っぽの頭」についてを記述したい。

町子:陽人とは従属対称の関係に在る。
言うなれば町子には人格的な描写が乏しく、またその魅力にも欠けている。
つまり陽人の人格的な魅力を浮き立たせる為の地であり、その為に従属しているのだ。

 以上、概略的に作品を俯瞰すると、極めて明確な構造性のあることが分かる。が、質疑応答の際に監督が口にするのは、「目的に対してどのような手段を試みたか」ではなく「作中の人物であればこのように感じるだろう」というような観者の感情移入の仕方に沿うような発言であり、一見して作品に見られるような構築性とは矛盾する曖昧なものに留まっていたことが気に掛かる(なぜなら、制作者の発言としては作品について余りに無知であり過ぎるものだし、逆に何らかの意図により、観者にとっての読み取りのヴァリエーションを期待する態度にも思えたから)。私はこの作品がどのようなマーケティングを経て世に売り出されているのかを知らないが、今後、作品がどのようなターゲット層に希求していくのかについては一定の興味を維持したいと思った。