June 15, 2009

untitled

※美術作品について言葉(ランガージュ)で以て語ることは、同様に文学作品について語るのとは異なる、全き「困難」というべきものに直面せざるを得ない。人は、ものについてを語る際には言葉を用いる。文学作品も——これは日常的な言葉とは屢々乖離する場合があるが——「言葉」が用いられ、また「言葉」で書かれている為に、円滑な意味の移行が可能で有るかのように、多くの人々には感じられるものである。だが、文学作品が、既に言葉として選び取られた対象の組み合わせであるのに対しては、美術作品というものは依然として言葉以前の地平にあるような対象として現れるかのようである。何なれば、美術作品というものには、文学作品が当然のようにして世界という対象から言葉によって選び取られているかのような関係を創造できることに対して、あたかも「言葉」を用いるという手段を敢えて回避したかのような対象を改めて言語化するという作業が必要で有るかのような印象をを与えるものである。このような認識により、人々は端から、先ず作品という対象をこれまで誰もなし得なかった偉業でも達成するかのように言葉に置き換えるという作業に対して、まるで苦慮しなければならないかのような困難を覚えるものである。が、これとは逆の言い方を試みるならば、敢えて言語化をする必要がなかった為にこのような作品としてのかたちに留め置かれている、とも言い得るものである。そして現に、「作品」といわれるものの全てが、何か高度で複雑な概念を言い当てる際には既に充分なかたちで整理されていると、後々になって遡及可能であることに留意したい。というのも、これは最早当然のことのように思われるのだが、人の理解において言葉による仕方が最も簡潔な方法だとは畢竟言い得ないからである。そして、このような誤謬の背後には、複雑で淀みがちな"日常的な言語使用"における表現の困難さが控えているための錯覚のあることが指摘し得るのである。人は、そもそも言語以前のものであるというような対象の前にあって、明らかに気負うが為に硬直し、そして失語に陥りがちなのである。

※子が親と結ぶ「世代」の関連を、今度は子が親と成ることにより反転するのであるが、最早親子の間にある世代の関連が上手くいかず、己れの自尊心ばかりを強みとしてく系列にあっては、その都度「時代」にあって絶えず繰り返されていく類似についても、やはりその都度、一回性ばかりが重視され、絶えず新しさだけが確からしい基盤となり連綿と繰り返され続けるのである。