September 18, 2008

untitled

 カッフェで岩波文庫の漱石『硝子戸の中』を読んでいたら、あちこちへと持ち運ぶうちに段々と草臥れたらしいグラシン紙のカヴァが、背から真っ二つに破れてしまった。これはすっかり飴色に変色していたのが、その為に却って風情が匂っていた。この幾分か古風な様子は気品の漂ったふうにも感じられて、頁を捲る指先とは違った手触りが本の背を支える指に残るのも私は気に入っていた。
 むずかりながら破れたグラシン紙を取り除くと、随分と真新しいような感じのする表紙紙の様子を私は意外に思った。薄汚れて透明さの鈍ったカヴァを透かして読める表題の文字には、古びたが為に確かさの宿るような思い込みも有ったが、それが今や昨日今日にでも書店で買い求めたばかりのもののような、まだ新しいというだけで気恥ずかしさを思うような気分の生まれない訳にはいかなかった。不意にものの纏う魅力が消え去ってしまったかのような落胆が興った。表面ばかりが侘びて、然しその裏では着々と新しさの伏蔵されていたことには驚かされた。
 清々しい天色の帯には「定価100円」と書かれている。奥書を見れば、私のものは1983年の第53刷とある。これは丁度私の生年に相当する。その上には1963年改刷とある。さらに上には初刷りの年が書かれていて、これは1933年となっている。意外にもその出所は年の浅いもので、表紙紙のまだ初々しいのはこの為である。例えば私の持っている『東海道中膝栗毛』は1938年に刷られたものであり、その全体は黒ばみに汚れて背の表題はくすんで判然としない。(又、この頃の岩波文庫は当世のものよりも一回り大柄で、のみならず検印台紙が貼られている)二つの本を並べて見比べれば最早一目瞭然に、後者は実に無理なく侘びていた。半世紀ほどの幾年の差は、やはり思うまでもなく明らかなものだった。手品のカラクリを知った時にもこういう気分を抱くものらしい。魔術の備える魅力は幻惑に依るものだけれど、こうもあっさりと切り返しを喰らう小気味良さにこそ、寧ろその為の魅力は喚起されるように思う。
 破れて用を成すことも出来なくなったこのグラシン紙のカヴァは、仕方無しに二つ折りにして後の見返しの間に挟んである。