『横浜トリエンナーレ 2008』を見に桜木町へ行く。
Jonathan Meese, 2008.
世間でこの催しがどのように扱われているのかは知らない。ここには Art も Kunst も Beaux-Arts も、そして勿論「芸術」もないのだということを明言する必要はある。問題となるのは「アート」という片仮名書きの日本語についてであるから、先ずこの点に誤解のないようにされたい。「アート」は Art の訳語などではなく、最早独立したマーケティング上の"一ジャンル"である。だから、真面目な人がこのような"語義の問題"に係って一層憤慨しているのをよく見掛けるのだが、それは余りに場違いな態度であると言える。同様に、このような語義の問題に自覚的であるような振る舞いによりちゃっかりとおこぼれに預かろうとする卑しい連中もちらほら見掛けるが、今では彼(女)らもすっかり古風な収利生活者に成っている。つまり、ここに「作品」は在るかも知れないが、その価値は「アート」という枠付けによる変質を免れてはいない、という点を理解するべきなのである。例えば、観客が皆神妙な面持ちで事の行く末を見守っている光景があるとして、その状況に客観性を導入する為の反射装置——例えば"監視カメラ"のようなもの——が彼(女)らのすぐ近くに設置されているとする。そして、モニターに映し出される彼(女)らの過剰なまでの深刻さをせせら笑う為の場所が他に用意されているのだとすれば、それは「作品」になるかもしれない——というのは、無論のこと「冗談」である。
私見で言えば、この催しはカネを支払って観客の若い女の脚を観に行くことにこそ価値があると思う。「アート」の楽しみ方は人それぞれなのだということについては大いに結構である。せめてこの点についての誤解を退けるような配慮は必要である。