March 14, 2009

作品を観ること、それを語ること

例えばあなたが作品を観て、何か感動や、えも言われぬ満足感を得たとする。あなたはその作品についての素晴らしさを感じて、この感情をどうにかして誰か(他者)へと伝えようとするかもしれない。あなたはその作品から、何か素晴らしいものを手に入れたのだと思うかもしれない。

だが、その「素晴らしい」という感動は、紛れもなくあなた自身の持ち物である。
(このことは「あなたが素晴らしい感性の持ち主である」という讃辞を意味しない)
つまりあなたは、作品において反射したあなた自身の感情について、好き・嫌いや良い・悪いを感じているに過ぎないのである。

だからもし、作品が(あなたに対して)何か新しい感情を与えるのだとすれば、あなたはそれを「素晴らしいもの」として感じるのではなくて、「訳の変わらないもの」として(さらには「見慣れぬもの」や「馴染みのないもの」、「不気味なもの」としても)感じるはずである。

なぜなら、あなたが作品から得る、よく分かるものの感情は、あなた自身の感動が裏返されたものであり、そうであればこそ、作品はまだあなたに対しては何も与えずに、そしてあなたはただ、作品と対峙したまま平行しているに過ぎないからである。
作品の本当の姿(この表現は、幾らかの語弊を含むかもしれないが)は、このような対峙の、その向こう側にあるから。私たちはさらに、この状況からまた一歩、大きく踏み上らなくてはならないのだ。

越境するもの——では一体、作品上の何を踏み上って越えていくのだろうか?
何を越えて、さらなる作品の内部(内奥)へと踏み込んで行くのだろうか?

額縁。土台。
これらを一まとめに指し示す言葉としてパレルゴン(parergon)がある。
「作品」と名指されるものの全てには、必ずこのパレルゴンがある。
なぜなら、わたしたちが「作品」と名指すことのうちには、作品を、それが置かれている環境からは引き離す動きがすでに含まれているからだ。
わたしたちが"それ"を「作品」と名指す。と、すでにこの「作品」は、周囲の環境からは切り離され、作品とそうでないものとに区別されている。
つまり「作品」という名指しは、作品の外形を規定すると同時に、作品それ自体にも触れているのである。

作品の内側から述べること、これは批評だ。
作品を褒めることも、作品についての好き・嫌いを述べることも批評ではない。(その役割はレヴュが担っている!)
作品経験上に何が起こっているのかを(有らん限り)正しく記述し、そして伝えることこそが、批評の担う機能(役割)である。
(『aimai』展@横浜、赤煉瓦倉庫。頒布物に掲載)