世界を認識の中へ祓いのけること——この脱魔術化の行き過ぎの裡に、世界は再-魔術化される。芸術が現れるのは常にこの逸脱の地点より、カオスと共にである。とすれば、私たちがこのような芸術の様相から(カオスから作品を分離し)「作品」を見出だすのは、既に先行する脱魔術化の認識を基盤としてのことである。この反射運動によって、脱魔術化を否定的に受け入れ、そして私たちは社会構造の外側に「作品」を見出だすことになる。なぜなら脱魔術化とは見られた限りの社会そのものであり、主観的に経験し得る習慣それ自体だからである。