桜木町「のげシャーレ」へ行き、岩渕貞太『タタタ』を観る。私はこの公演に機材提供をしていたので、招待扱いで観ることができた。
作品は2部構成になっている。前半部は酒井幸菜が踊り、10分の休憩を挟んで後半部を振付けの岩渕貞太が踊る。この二つのパートは同じ振付けである。つまり、再現されたものの本性が、反復されたものとして現れてくるのであるが。
舞台の床には白色のシートが敷かれている。照明・音響機材の他に目を引くもののない素舞台である(この「素舞台であること」を強調する為に、舞台奥のコンセント類は有孔ボードの穴までも描かれた紙で覆われている! これは、何もないことを表現する装飾の過剰である)。先ず、観客の静寂を破って、演者が上手奥の扉から現れる。そして腰溜めに俯き、腿から膝にかけてを手の平で叩く。バシバシバシ……と突然、場内に肌を打ち鳴らす音だけが響く。緩急を付けて強く、それから弱く、また強く——といった具合に。やがて観者の聴覚はこの一連の操作によって、どんな小さな音に対しても敏感に反応するようになる。それに伴い、観者の意識は舞台上へ居着くようになる。次に演者は、腰を大きく捻りながら水平方向に回転させる。すると股関節を中心に、パキパキと関節の鳴る音が場内に響く。例えば無音の状態で、何か慎重な身振りを行うとき、関節音が鳴ることで観者の興が削がれることがある。表現されたものに対して肉体の生々しさが勝ってしまう為であるが、この作品では敢えて関節音を効果として提示することで、以降のそういった意識の離れを低減している。そして私が面白いと思ったのは、この動作の後、一部の照明が消された際に、灯体が温度差によって音を発していたことである(これが音響的な操作によるものか分からなかったが、意図的なものに思えた)。なぜなら灯体が発するこのような音も、通常はノイズとして観者の興を削ぐものだから。
それから以後、ビートの強い音楽の導入によって、ダンスの振りは激しく盛り上がりを見せる。誰か「躍動感のある」とでも表現しそうな、舞台いっぱいに駆け摺り回る動きである。が、音楽の過剰な突出によって導入部で作り上げた慎重さは消え失せ、まるで音楽に踊らされているかのような見え方になる。すると今までは緊密に思えた演者と空間との関係が解け、広過ぎる場所で動き回る身体が矮小なものに見えてしまうのと同様に、それまでの緊張感は一気に霧散してしまう、堪えのなさが露わになってしまう。すると観者の集中力もぱっと消えてしまう。だからこの1/3は蛇足に見える。否、これは寧ろカタストロフが過ぎ去って残る疲労感を表現したものかもしれないが、とすれば却って若者らしいありきたりな印象が表立つ。これは本作が、最後に演者が床へ昏倒することで終わる——横たわることは、歩くことや転がり回ることへも連続しているが、横たわったままで終わりを迎える理由には疲労を必要とすることから。
用いられた音楽が明らかにそれ単体で聴かせるつくりであるからその音数を減らす、演者に及ぶ照明効果のコントラストを上げるなどの対応により、上述の演出的失敗に対処することはできただろう。
March 28, 2009
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時刻: 00:00
label: memorandum, review, theatricality/performance