October 20, 2008

untitled

 幼少期の記憶には思わぬ摺り替えが紛れていて、思い返してみれば整合性の欠ける事柄であっても、寧ろこの間違ったものこそが正しいのだと思えるようなことは多々有る。例えば、故人の口真似をしてみせる遺族の立ち振る舞いに、ふと当の故人本人の面影が宿るということが有りはしないか。この考えを突き進めてみれば、私は今まさに死者と対峙していると言うことは出来ないだろうか。そして、このような飛躍に在ってもなお正気が持続し得るというのであれば、私は誰か死者の記憶を知らぬ間に引き受けているということも当然有り得ることだろう。このような記憶もやはり私の持ち物として思い返されるのであるが、間断ない経験の時間において、ふと"引き結び"の結滞が発見される(対象は既に在る)ときには、記憶の流れは脇道へと押し遣られて、そして引き解かれた結び目の長さだけ余分な時間の経験を知ることになるのである。すると結び目は消え、また元の間断ない時間へと帰り着いている。この余分な時間が "Déjà vu" として、まるで初めて起こる事柄が既に在ったかのようにして繰り返されるのを目の当たりにするのである。