February 26, 2008

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 小説に於ける全てが口語で行われると云う事、そこに地と図との違いが差し挟まれることが無いということで、文法的な一貫性の欠如は曖昧さの中で許容される。これにより小説家は、その曖昧さの最中に様々なレトリックを差し挟むことが可能になる。言うなれば終始文法的に一貫した文体に於いては読者にすっかり吟味されていた筈のレトリックも、この「曖昧さ」に於いては読者による意図的な無視を受けると云う自由を獲得するに至る。つまりこの時の読者は、すでに小説家の尽くすレトリックの数々をすっかり受け入れる態度で居ると云うことだから、逆に飛躍無しの文体に対しては少なからず退屈を感じてしまうのである。何故ならば読者たちは、口語により確立された小説のスタイルを享受する過程で、寧ろこの曖昧さに頼ることで自身の夢想を充分に駆け巡らす事の快感をも獲得してしまったが為に、読み手による誤読の自由を差し挟む事の出来ない厳密なスタイルの文体に対して嫌悪感すら抱き、さらにはそのような文体を読みこなす為の忍耐力を失ってしまったからである。とすれば読者に対してこの失われた忍耐力の回復を要求する事には甚だ困難が付き纏う。と言うのも、彼らが何に於いても先ず真っ先に信頼するものは己の価値観、自身が何らか対象についての判断を下したと云う事実性に対して最も確信を覚えるのだから、彼ら読者を説得すると云う事が先ず不可能事になってしまっている。だから小説家は、彼らのより感じ易い対象物をその目の前に与えながらも、と同時にその背後から、そっと彼らの無意識へと語り掛けねばならない必要性に迫られている。何なれば技法と云うものには、まるで秘め事であるかのように読者の眼前からは姿を消す振る舞いが求められ、それ故に近頃の小説家たちはこぞって神秘のベールを探し求めている。が、当然ながらそんなものはこの世には無い。そしてどちらかと言えば、彼ら近頃の小説家たちに求められているのは詩人の素養である。

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 キャラクター小説の成立に必要となるのは、何に於いても先ず「キャラクター」である。つまりこの場合の「キャラクター」と云うものは既存のもので、既に"完成形"を備えている。換言すると小説内で用いられる「キャラクター」は、その「小説」の成立に対して先行しているのである。ここで重要な事は、キャラクターの性質は開かれて後天的な要素が付与出来ると云う事、小説とキャラクターとの関係が作品とモチーフとの関係に似ていると云う事、その2点である。一先ず前者について述べれば、既存の小説では物語の展開に従って登場人物の人格が徐々に醸成されていくのに対して、キャラクター小説に於いては登場人物の人格が物語の展開に先立ち既に成立している。それ故に読み手にとっては(寧ろ)物語に於いて描写されていく登場人物たちが「キャラクター」として適正か否かを或る種の批評性に則って吟味する事が可能となる訳であるが、それ故にこのようにして読み手に強いられる「委ねられた作品の自立」への参加が観者の鑑賞経験に於ける"内的(主観的)体験"を過度に補強してしまう為に、「作品の客観的な自立」をまるで彼岸の夢のように扱わざるを得ない点に、私は疑問を感じている。換言すれば、「キャラクター小説」の自立は読み手(観者)の鑑賞経験に対して寄生的だと思われるのである。