February 23, 2008

untitled

 強い風。今日は本当に強い風が吹いた。高台より見渡せば、朦々と舞い昇る土煙は眼前に広がり、それらが川沿いの低地に沈殿している。街並は黄土色に染まっていた。足下を土埃が攫っていく。上を見遣れば空の青み、色めいて春の匂いがする。やや白んだ雲。まだ肌寒いが、夏の陽射しにも似た直進性の光線も感じられる。地表にはほんのりとした暖かみが湛えられている。その境を、土煙は行きつ戻りつしながらも絶えず自身の体積を露わにしていた。騒々しく交わる風と土、その毛羽立つ表裏一体の境界面に於いては、動相が現れては消えまた消えては現れてと云う具合に、殆ど無限にも感じられた様相が展開されている。それらは個々の領域を持たずにひと続きであり、或る明晰な部分が隆起したかと思えば次の瞬間にはもう跡形も無く消え去っている。この、土煙を構成する細かな粒子の運動や光線の生み出す陰影の加減を通じて、私たちは確かに風の在る事を知る。けれども私たちに見る事が出来るのは、あくまで土煙の変幻だけである。風それ自体を見る事は決して無い。つまり風は、何か明晰な物質の存在に仮託するようにして現象する。有から無へまた無から有へと、このような動相の持続こそが気象の本質である。変幻、その都度、気象が姿を現す為に仮託する物質は異なるが、ただその動相のみは連綿と持続している。気象は存在を越境する。私たちは風の孕む動相の持続を通じて、その連続性の中から「風」だけを切り分ける為の何か明晰な境界を認識するのでは無く、風がそのような境界を越境したと云う事実、即ち敷居経験を認識している。