May 29, 2009

untitled

まだ?

「芸術が分からない」などと言って嘆いている人間を見ると、手を差し伸べたくなる。芸術の価値は、善し悪しや好き嫌いで定められるものでは、勿論無い。先ずは作品を観て「どう思うか」で充分ではないか。確かに「芸術とは何か」の問い立てに答えることは難しい。が、言葉にし難いものを直ぐに"難解なもの"と決めつけ、高尚なものに仕立て上げてしまう風潮は如何なものかと私は思う。何なれば芸術とは、人間であれば誰にでも感じ得るものであるし、また理解し得るものであると私は考えている。確かに、芸術を享受する為の余暇は必要となる。生活に余裕が無く、唯追い捲くられるように生きている或る種の人々にとって、また芸術とは余りに馴染みが無いものであり、そしてそのようなものとしてこの世の中は出来つつある。とは云え、それが為に芸術が必要な人間と、そうで無い人間とに是が非でも分けようとするような風潮はけしからんのだ。所詮は"するかしないか"であって、”分かるか否か”の問題では無い。「芸術が分かる」と言って特権意識を持つ人々よケツ喰らえ! あなたら素人が芸術について云々言うのはまだ早いのではなかろうか。ならば論じてみ給え! 何かものを言うだけならば誰にでも出来る。そう、"誰にだって"それは簡単なことなのだ。たかがその程度のことに、正当性もクソもあったものだろうか? 私にはここまで芸術に対して意固地に振る舞おうとする当世の風潮それ自体がよく分からない。だから、「芸術とは実に無感動なものだよ」と——こう言ってやれ。何故なら人々はこの無感動に、言うなれば余りに無感動で居る自分自身の感情に対して感動するのである。とすればこの感動とは、実に彼ら自身の持ち物である。この感情には何らの外的な理由が無く、それ故に純粋であり、だからこそ確信を以て誤謬へと陥りがちなのだ。感動は、心情の空虚へと向かって猛烈な勢いで惹き付けられていく——すると人々はあっと驚きふためいてしまうのだ。馬鹿らしい。「私はこの余りに素晴らしい感動を作品から受け取ったのだ」、否、そうでは無くて、このような感動は作品からは桁外れに離れ過ぎている。或いは「反射」と呼び得るほどに対極にある(だからこそ人々は、このように大きな感情のやり場を作品の上に理由付けようとする)。ところで考えてもみ給え。君らは当該の作品それ自体からは一体何を受け取り、またどのような仕方で関与したと言い得るのだろうか。
私は、——と云うような夢を見た。