May 13, 2009

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まだ?

人間は、対象の裡に存する根源性を、即ち自己と対象との関係を鑑みるに対象がどこまでも自己に対して先立っているのを感知し、それを崇高なものと捉えて、神への憧憬を自覚するに至るのである。

だが、まだ。

——まだ?

見掛けの上で永遠なる対象(もの)が自己に対して常に先立つのは、神(この時点では括弧書きされている)への憧憬をこの第一の理由に据えるからである。

世界が自己に対して先立つ感じを「理性」、自己が世界を自称として対象化する感じを「悟性」とすれば、この「感じ」というものがカント的な意味合いの「感性」であると説明する。

「感じ」を対象化した際には、最早それを起点(基点?)として生じた理性と悟性とは本性を曖昧なものへと変じてしまうのだから、「感じ」を対象化しようという意志は、どこまで行ってもやはり不明瞭なものになってしまうのである。

先ず「神」という対象があり、それと同時に神の「永遠なるもの」という性格付けが為されて、次にこのような対象である「神」というものが、果たせるかな「何であるのか」を問い立てる場合にはいつでも、この意志の根底には「神の永遠なる性性格」が先行して忍び込んでいる。

「この永遠なるものが神であるとして、では神とは何であるか?」という具合に、神を対象化することで先行した筈の自己は、常に自身の神に対する定義付けの為に、変わらず神に対しては従属し続けるのである。
曰く「神は世界を創造した」。
曰く「世界は神の発した言葉と同時に在る」、云々。

見掛け上、悟性的であった問い立てが、その実"理性的なもの"であったことに対しての気付きこそが、まるで「アキレウスの亀」であるかのように。

まだ。こんなものは単なる"騙し討ち"に過ぎない。

言葉を有するものはこの世界にただ人間が在るのみである。ところで言葉の本性は"神の所有の裡に存する”から、人間は言葉に於いては常に世界に対して述べ過ぎるのである。因って以下、云々。

「すなわち精神としての神は顕わとはならないであろう。」——何故なら精神こそが神の本性に他ならないものであるから。以下、云々。

まだ、まだ。まだ。三度まだ!
未だ、未だ。未だ。三度未だ。

よってシェリングは「悪の可能性」と定義するに至る。何故なら、彼にとっての「悪」とは、まさに対象に於ける両原理(同一性)の可分裂性を明らかにする原理だから。

※対称性とは即ち「主観上の同一性」の代わり名に他ならない。

人間は観念的原理との統一に於いて或る余地を見出だしてしまう。これこそが人間にとっての価値ある前進——。"I Think …"の極点である。これこそが、定義付けや、或いは定義の運用という行為のそもそもの誤謬である。


(いま改めて読み返してみると、さっぱり訳が分からない:2013/09/23)