May 23, 2009

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先週に引き続き東京国立近代美術館へ、『ビデオを待ちながら』展を観る。
講演を聴きにいく時間が無かったことは残念だ。
珍しく2時間ほど観て回った。
中々楽しめた。
が、キャプションの極めて断定的な口調——そして、やもすれば何かを論じ立てているような若書きの青臭さには否定的な気分を持った。
一見すると啓蒙的な、作品の核心へとせまるように要請するかの要点書きは、然しながら観者の浅はかな知識体系を固着させてしまう。
知識を持たない者に対しては固定観念を与えるし、多少なりとも知識のある者に対しては蛇足であり、さらには誤謬を与えもする。

それから「なびす画廊」へ行き、『利部志穂』展を観る。
彼女はこの空間にすっかり手慣れたようで、だからこそ余り目新しいものはなかった。
生まの植物、コンセントからの電気供給により駆動し続けるモーターやコンピュータ・ディスプレイ。
まるで下町の露地に居るかの乱雑と静けさがある。
「ディスプレイ(展示物)」とまではあからさまに提示されてはいないのだが、一つひとつの対称はあくまで見られるべきものとして最低限に留められている。
彼女がこの空間で展示を行うのは4回目になるが、このように手慣れた所作が、他の空間を扱う際のエピゴーネン(雛形)になるのだと思う。
そうこうするうちに撤去作業が始まり、それまでは堅固な組み合わせを維持しているように思えたそれぞれの"かたまり"が、解体の簡便さの順位に従って次々とバラバラにされていった。
それを眺めながら、帰りしなにMkrさんから『美術手帖』のバックナンバー(Vol. 57, No. 872, 2005./ Vol. 60, No. 903-906, 909, 915. 2008./ Vol. 61, No. 917, 920, 2009.)を頂いた。昨年11月に hiromiyoshii にて Dahlem, B. の展示が行われていたのを知らなかったことは迂闊だった(B.N.に目を通していて気が付いたから)。私はこの雑誌への興味を失って暫く経つが、相変わらず何かしらの手段で手許にはほぼ一続きのものが手に入るようになっている。必要と思われる箇所には目は通して、少しの間を書庫に留め置いたら、あとは誰かに譲るなりするつもりだ。