折口「稀人(まれびと)」とシェリング『人間的自由の本質』に於ける「自由な存在者」とを並置すると、両者の主体性の現れに何らかの神的な「機会」が関わっていることに気が付く。
作品への参与者(主に観者)についてを分析する過程で以前からシェリングの「主体」に着目してはいたが、ここに折口の「稀人」を併せることで、作品を軸とした社会を受容論的に描くことが可能となるだろう。とすれば前述の「機会」は、観者をその鑑賞経験に於いて時代や世代へと関連付ける必須の要素となる筈である。
January 29, 2008
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時刻: 00:56
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