August 15, 2008

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 この日は同窓のTksさんと上野で待ち合わせて、東京国立博物館で催されている『対決——巨匠たちの日本美術』展を観に行く。最終日が近付いていた為にか、平日であるにも拘らずまるで休日とも見紛うばかりの人出の多さだった。炎天下と、そして湿気に滲んだ色とりどりの人の海。皆銘々に気負った面持ちで、一堂に会した日の本の名物を拝んでやろうと躍起だ。そんな熱気の最中に紛れて、お互いに歩調も歩幅も合わないから、先ずは各自で順路を2巡して、それからロビーで待ち合わせて3巡目を一緒に観て回った。ガラス壁に汗の浮いた鼻を擦り付けるようにして、雑踏に偶然居合わせた隣人と肩を擦り合い身を捩るように前に出て、或いは二三歩ガラス壁からは退いて、苦心しながらも窮屈な鑑賞を終えた。企画展でもなければ、こうして合い並び立つことも無かったであろう名物の数々が、一挙に視界へと収まる景色の為に湧き立つ高揚感の何と騒がしいことか。「対決」の文句はあからさまに観者の批評的な態度を煽るものだけれども、寧ろこの企画展に於ける真骨頂は、名物の数々が織り成す異彩の景色にこそ集約されている。個々の作品をじっくり観たければ、銘々の収蔵先へと足を運ぶ方がずっとよい。間違ってもこの為に掛かる手間を省いて楽をしようなどとは考えないことだ。そうでなければ、わざわざ人混みに揉まれてげんなりと疲労するようなことは割に合わないし、馬鹿げているから。
 私は雪舟にちらと挨拶をして、長次郎を愛で、宗達には大いに笑い、蕪村に唸って会場を後にした。彼女とは等伯と若冲への好みについては共感し得たが、然し私の蕪村趣味には首を傾げていた。こう云う趣味が死を眼前に悠然と余生を楽しむ老成のものであることを私はしっかりと心得ている。そのような愉悦を、私はM先生から教えられていた。

——或いは別の夢。

 「見せかた」と「見えかた」との矛盾を記述することにかけては芸術批評の強みがあるが、そこへ理論的な正当性を織り込んでしまう点では文学に劣る欠点を備えている。だが、対象へと向かう態度に於いて何らの他人事の余地も挟まぬという点に、批評的言説の価値が宿る。これはジャーナリズムには到底及びも付かぬ真摯な態度である。予てより批評畑の人間は世情を退き何者かの歴史の為にかまけてきた訳であるけれども、然しふと娑婆へと眼を向けてほしい。そこに何が見えるのか、己れの真摯な態度はどのように発露されるのかを試してほしい。改めて言うまでも無いが、芸術は古典にしかない。それ以外のものはひと時も保ち堪えずに、目を離したその瞬間には跡形もなく消尽してしまうのだから、本当に下らない、それらを救い出そうなどと義務感を誤謬に貶めることなく、先ずは己れの眼前に何が現れているかを明敏に語ることこそが、最も真なる(そして内なる、私たちの)芸術に歩み寄る為の唯一の手立てである。当の芸術作品は、私たちに遅れて、宣言的に現れてくる。その差異に向かって我々は言葉を差し挟むのだから。

——さらに復た、別の夢。

 いよいよ以て重症だ!
 レコード屋を訪れても、聴きたい音楽が思い浮かばない。書店に立ち寄れど、欲しかった本を目にしても、それらを手に入れようとは思わなかった。
 近頃では新本を買わず、新譜を買わず、何もかもすぐに見飽きるだなんて、いよいよ老成の無気力が歩み寄って来たのか!?
 最近では文章を書く気もめっきり失せていたけれど、今ではリハビリ紛いにまた幾つかの文章を書き始める機会を得ているから。僕は程無くして、文学者に成っているかもしれない。

——このような気分を夢の中で思い出しでもしなければ、復た現世に於いても同じ気分が繰り返されることも無かったのだと思い、私は大変に悲しかった。と云うような夢を見た。