March 14, 2008

『WKM/OO』、『ABCDの素晴らしき世界』

 以前から気になっていた "Art Center Ongoing" へ行き、東野哲史『WKM/OO』展を観る。駅からは少し離れた場所に在るが、別段迷う事も無く辿り着いた。1階はカッフェ、通りから硝子越しに内部の様子を窺う事が出来る。2階は展示スペースとなっていて、作家十数名のポートフォリオを閲覧出来る小部屋が併設されている。木造の構造体が剥き出しとなった空間。全体の雰囲気は "appel"(経堂)にも似ていた。
 さて、今回の『WKM/OO』展に就いて。入り口の硝子戸を開けて直ぐの少々傾斜の急な階段を上ると、「ワカメ、ワカメ……」と云う声が音楽混じりに聞こえてくる。先ず正面の壁に人形を成した乾燥ワカメが無数に貼付けてあるのが目に入る。次いで床に、漫画『サザエさん』のキャラクター「ワカメちゃん」の髪型を成す、これまた乾燥ワカメが敷き詰められている。そこから歩み出て窓の方を見遣ると梁からワカメちゃんの髪型を模したウィッグが鈴生りと成って吊り下がっている。これは機械仕掛けとなっていて、モーターが甲高い音を鳴らし回転を始めると、このウィッグの束が理由無さげに数回ばかり上下する。暫しの沈黙、そして再び上下運動——かなり滑稽である。その脇には所在無さげな飾り付け。足下にはTV、先程の声はここから発されている。短尺でループする声と音楽、終始鳴りっ放し。それから3階へ、またしても少々急な階段を上る。行き止まり、その壁には小さな台が設えてあって、延びきった乾燥ワカメと白濁した水の入った硝子コップが1つ置いてある。軽い溜め息を吐いて再び階下へ、壁面の人形乾燥ワカメ群に暫しの間ぢっと見入る。近寄ったり離れたり、眺めているとシャーロック・ホームズに登場する「踊る人形(Dancing man)」の事を、或いはジョエル・シャピロ(Joel Shapiro)の小躍りする人形のブロンズ作品を思い出す。生々しく透明色のボンドが糸を引いたまま残されている。まるで"手の届く範囲目一杯に"と云うふうに感覚的に配置され、そして周縁部では何やら物語めいた配置も為されている。一見して意味不明。戯けた振動、ダンス——この、半ばゆるっと弛緩した身体性にリアリティを感じた。例えとしては余りに仰々しいが、ラスコー洞窟壁画のように。

 それから路地をうろうろとして抜け、多田玲子『ABCDの素晴らしき世界 〜アイスクリームの百物語〜』展を観に、にじ画廊へと行く。1階のショップ・スペースを尻目に2階へ。「Kiiiiiii」のアートワーク等で見慣れた絵。物語文の刷られた紙と絵画作品とが交互にピンで壁に留められている。イラストレーション的ではあるが、絵画でもある。筆に興の乗ったような箇所も有り、単なる落書きであるとも言えない。ここで暫し、私の芸術観からは離れて首を傾げる。趣味として言えば決して嫌いな作品では無い。が、この「作品」と云う呼称に就いては取り敢えず保留しておく。
 尚、彼女は近々 Art Center Ongoing でも個展を行う。(『仮面ブドーのレース』展)

 今後、美術作品が増々「デザイン」へと接近していく事は避けられないだろう。それは絵画のイラストレーション化、デザイン的な要素の混入を例に挙げるまでも無い。美術はデザインと渾然一体になり、新たな社会性を獲得する。近年の美術作品は殆ど"表象の過剰"により成り立っている。この「デザイン」と云う言葉には、作品の表象に於ける時代性としての「デザイン的な処理」に留まらず、その作品がどのようにして社会に提示されるかと云う「見せ方」までもが含意されている。この為、「作品」と云う言葉が指示する対象の孕む圏域は、広く生活の中にまで染み入ってくる。とすれば作品の鑑賞経験に於ける「客観性」と云うものは、一体如何程に保証され得るだろうか?