March 29, 2008

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善し悪しを通り越して、好き嫌いでしか語り得ない絵画を
私は"失語症絵画"と呼ぶことにしよう。

例えば林檎の描かれた絵があるとする。
この林檎は赤い、そして中央に大きく描かれている。
「この林檎は、あなたの心を表している。」
などと作家が言いはじめたなら、これを眉に唾して聞くべきだ。

この林檎は、右上に描かれた小さな手によって、握られようとしている。
この手は果たして握る手か? それとも林檎を放り投げる手か?
そういう問いを失語症絵画は、実に無化している。
紛れも無くその絵画にとって、それはどうでも善いことだからだ。
作家のエゴを極端に通したら、観者の解釈もどうでも善くなった。

だからそういう作品は、他の作品との比較を嫌がるし
さらには作品の内部に於いても対比や差異を必要としない。
そういうやり方で、唯一性を手にしている。

こういう絵画を前にして、作家はオリジナリティーを口にするが、
出来事による唯一性というより、キャラクター性を全面に押し出している。
つまり、それらの作品は複数化しうる訳だけれど
一つ一つ、表情が違うんだ、つまりそれはシリーズなんだ、と
作家はその絵を前にしてしたり顔だ。

いうなれば、その絵に対して何も言って欲しくは無い訳だ。

(2006.3.28)